カテゴリー「平清盛・関連話」の投稿

関連話:早過ぎた清盛の夢

 平清盛が夢見て目指したのは、武士の世になって都の近くに本拠を構え、海外と貿易をして国を豊かにするという国家構想でした。しかし清盛が亡くなり、平家が源平合戦に敗れた事で、清盛の夢は頓挫する事になりました。
 それでは、清盛の夢はただの夢物語に過ぎなかったのかと言えば、実はそうではありません。源頼朝が開いた鎌倉幕府が滅亡した後の、足利氏による室町幕府の時代になって、清盛が夢見た形に近い国家が実現するのです。
 足利氏は京都に武家政権の本拠を構え、外交や貿易にも力を入れました。清盛の時代から140年以上先の事です。
 つまり、清盛が思い描いた事は、時代を140年以上も先取りしていたのです。しかし、まだ武士の世がしっかり根付いてもいない内に、無理にでも実現させようとしたために、周りの理解を得られず失敗してしまったというわけです。平安時代末期では、まだ早過ぎた夢であったのです。
 武士の世が根付いて、清盛が思い描いた事が実現可能になるまでには、鎌倉時代140年以上の時間を費やす必要がありました。

 平清盛は、とかく悪人のレッテルを貼られて、その才能や業績を正しく評価され難い人物ですが、日本の歴史上でも有数の革新的な政治家であり、歴史の流れを大きく変えた偉人であったのかもしれません。

 大河ドラマ平清盛の関連話は、これで終わりです。
 皆様、どうもありがとうございました。 m(_ _)m


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素材提供:空彩

関連話:「願わくは・・・」の歌

Sakuramoon ずっと以前(3月頃)にも関連話で書きましたが、最終回でこの歌が出てきましたので、再び・・・。

願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

 願わくは、2月15日頃、満開の桜の下で春に逝きたいものだ・・・というような意味の西行の歌です。
 西行が生涯で詠んだ歌は全2090首余り。そのうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首、勅撰集には265首が入撰しているそうです。
 桜の歌が多いですので、西行と言えば桜!という感じになっています。
 実は、それまで日本で単に“花”と言えば、桜をさす場合も梅をさす場合もあったのですが、西行以降は花=桜となったそうです。
 現代でも、お花見と言えば桜見物の事ですよね。西行の感性の影響力が、今も生き続けているわけです。

 さて、西行の生涯には、桜に関連した不思議なエピソードがあります。それが亡くなる何年も前に詠んだという、自らの死を予見したような上記の歌です。
 旧暦の如月(きさらぎ:2月)の望月(もちづき:15日)というのは釈迦の命日の事ですが、実際に西行が生涯を閉じた日付は、その翌日の2月16日でした。・・・享年73才。
 清盛の時代において、長く生きて時代の大きな変化を最後まで見届けた一人が、西行なのです。



素材提供:雪月花

関連話:西行と堀河局の歌

死出の山 越ゆる絶え間は あらじかし なくなる人の 数続きつつ

 死出の山を越えてゆく絶え間はないだろう。亡くなる人の数がずっと続いて。・・・というような意味の西行の歌です。
 この歌は、西行の説明によれば、「世の中に武士が大挙して立ち、西、東、北、南。いずれでも戦をしていないところはない。切れ目なく人が死ぬのを聞くと、その数はおびただしい、真実とも思われないほどである。これは何事の争いかと嘆き悲しい状態であると思われて詠んだ」との事です。
 ドラマでは西行は、「そのご心労こそが(高倉)上皇様のお命を縮め参らせたもとにござりましょう」と言っていました。


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西へ行く しるべと思ふ月影の 空だのめこそ かひなかりけれ

 『山家集』によれば、堀河局が仁和寺に住んでいたときに、西行はいずれお訪ねしますと言っていましたが、忙しさにまぎれて行けませんでした。その後、月の明るい晩に西行が仁和寺の前を通り過ぎる事があり、そのことを聞いた堀河局が西行に送った歌です。
 西行という名の通り、西へ行く・・・西方浄土へと私たちを導いてくれる道しるべと思っていた月の光が空しい期待だったとは、甲斐無いことです。・・・というような意味です。
 完全小説版には載っていますが、ドラマではカットされていた、それ対する西行の返歌が次の歌です。


立ちいらで 雲間を分けし 月影は 待たぬけしきや 空に見えけん

 月が空の雲路を素通りしたように、私があなたの家をお訪ねしなかったのは、私を待ってくれる心のないことが、月の光を待ち望む心がないように、空から見えたからですよ。・・・というような意味です。


「西行殿。こうして恋の歌など詠み交わす世は、もう長くは続かぬやも知れませぬな。雅の花開いた平安の都は、もはや・・・」という堀河局の台詞が、大きな伝統文化の衰退を表していて、寂しく感じました。


素材提供:空彩

関連話:迷走する遷都

Ayu0 清盛が強行したのは、まだ何もないような場所に都を遷す事でした。
 いくら日宋貿易を中心とした国作りの理想に邁進するためとはいえ、これは誰が考えても無理がありました。

 また、遷都する場所選びも、迷走する事になります。
 最初は福原に隣接する和田(輪田)に和田京の造営を計画していましたが、意外と手狭だったため、すぐに計画が行き詰まります。そこで摂津国の昆陽野(こやの)とか、播磨国の印南野(いなみの)とかの案が持ち上がりましたが、どちらも立ち消えになり、ひとまず福原が皇居となりました。
 その後も、高倉上皇と意見が合わなかったりした末に、ついには源氏の挙兵に対応するために、遷都から半年もしない内に、清盛が決断して還都する事になったのです。
 その間に平安京の町は寂れ、人々の心は平家政権からさらに離れる事になりました。

 遷都は、清盛の生涯最後の大勝負だったわけですが、まさに清盛の晩年を象徴するかのように、迷走する結果となったのです。



素材提供:夢幻華亭

関連話:清盛の方法と頼朝の方法

Kanbotan0 武士の世を作るためには、平清盛と源頼朝とではアプローチの方法が全く違いました。
 清盛は、貴族政治の中で自ら貴族化しながら身分を高めて行き、平家一門が要職を占めるという方法でした。そのため、いつしか武家としての能力が低下して行く宿命を抱えていました。しかし、長く続いた貴族の世で、初めて武士がのし上がって行くには、これより方法はなかったのでしょう。
 貴族の世から、完全な武士の世に移り変わるまでには、その中間段階として、半分貴族・半分武士の平家政権の段階を経る必要があったわけです。

 一方、それに続く頼朝は、既に一度平家政権という武士の世の前例を経た後ですから、武士が武士のままで政を朝廷から任されるという方法も可能だったのです。
 「平清盛なくして、武士の世は来なかった」というドラマ第1回の頼朝の言葉は、武士の世の先駆けである平家政権の必要性を理解した上での台詞なのでしょう。
 そして頼朝は、武士が京の朝廷に近付き過ぎる危険性を平家から学んでいましたので、平家の二の舞にならないように、鎌倉幕府を開いた後も、たった2回しか京には行かなかったそうです。
 また、弟の義経の存在を危険視するようになった理由の一つが、源平合戦を勝利に導いた後の義経が、京の朝廷に近付き過ぎて、第二の清盛のようになり始めていたからだとも言われます。
 朝廷に対してどういう距離感を保つべきかが、この時代の武士にとっては難問だったのですね。


素材提供:十五夜

関連話:祇王と仏御前

Suiren1 『平家物語』によれば、幼少期より仏教を信心したので仏御前と呼ばれるこの白拍子は、京都で名を挙げて平清盛の屋敷に詰め寄ります。
 その当時に清盛の寵愛を集めていたのは、祇王と祇女という姉妹の白拍子の姉・祇王でしたので、仏御前は追い払われました。それを祇王のとりなしで清盛の前で即興の今様を歌って舞って見せ、一気に清盛の寵愛を集めるようになりました。
 清盛の寵愛を仏御前に奪われた祇王と祇女は、のちに仏御前の慰めのために舞わされる屈辱を受け、清盛の元から去って出家しました。仏御前には二人を思いやって、辛い気持ちが残りました。

 やがて仏御前も清盛の元から去るのですが、その仏御前が訪れたのは、出家した祇王と祇女がいる庵でした。仏御前が被っていた布をとると、剃髪して尼になっています。
 両者は語り合って心のわだかまりをとき、その後は共に仏門に励みました。

 ちなみに、後白河法皇が建立したあるお堂の過去帳には、祇王と祇女とその母、そして仏御前の尊霊が、一つ所に書かれているそうです。


素材提供:十五夜

関連話:以仁王

Hanakuidori2 今回のドラマのタイトルも「以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)」となっていますが、そもそも令旨というのは、皇太子や親王などの特定の地位にある人が出せる命令です。
 ところが、以仁王は親王宣下を受けた親王にすらなっていませんので、令旨を出せる地位にはありません。その以仁王が、最勝親王と自称して全国の源氏に対して平家追討の令旨を出したのです。本来ならば、疑問符のつく平家追討令だったわけです。

 しかし、平治の乱の時にもそうでしたが、戦いをする場合には正義の官軍である事が重要だった時代ですから、源氏側はこれをもって、正義は我らにあり!と主張する事になります。結果的には、この令旨によって源頼朝や、源(木曾)義仲らが挙兵して平家滅亡につながるわけですから、源氏側にとっては結果オーライだったのでしょう。
 
ちなみに、以仁王自身が起こした乱はあっさりと平家に鎮圧されて、以仁王も殺されてしまいますが、源頼朝などはしばらくの間、以仁王は生きていて自分達の陣営にいると主張し続けていたとか・・・。

 以仁王は、平安末期の激動の政治の中で不遇の生涯を生き、意外な形で平家打倒の機運に火をつけて歴史を変える役割を担ったという、数奇な運命の人物です。



素材提供:十五夜

関連話:武士の世

Momiji0 ドラマでは、平家の軍勢が京都を制圧して後白河院政を停止した、治承三年の政変の様子が描かれていました。これをもって、日本の歴史上初めての軍事政権が誕生し、“武士の世”が訪れたと言えます。
 平清盛が遺した業績の中では何と言っても、武士の世を初めて作ったというのが一番有名なのでしょう。

 しかし清盛のやり方による武士の世は強引過ぎたので、日本各地に反発が広がりました。
 のちに源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられて幕府を開くというやり方で武士の世を作って、幕末までの約700年間、日本に武士の世が続く事になりますが、それは先がけとなった平家政権の長所と短所を分析した上で編み出したやり方だったのでしょう。
 そういう意味では、清盛の平家政権がその後の武士の世の礎となっているわけです。

 そう言えば、ドラマの第1回の冒頭シーンで、壇ノ浦の戦での平家滅亡の報に沸く源氏勢を頼朝が制して、「やめい! 平清盛なくして、武士の世は来なかった」と諌める台詞がありました。
 私は台詞集ではそれを採らなかったのですが、今にして思えば、ドラマ全体を通してかなり重要な台詞だった事が分かります。



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関連話:平重盛

Tourou “平家の良心”とも称される平重盛ですが、平家一門の中では後白河法皇に近い立場でした。
 そのため、鹿ヶ谷の陰謀以降は、政治的地位も失墜しました。
 平清盛と後白河法皇との対立を抑えて関係をつないでいた人物は2人いて、建春門院・滋子と重盛だったのですが、滋子は既に亡くなっており、最後の歯止めだった重盛もこの後に亡くなる事で、両者の関係は完全に崩壊します。・・・そしてそれが、平家打倒の気運を全国に広げる結果につながって行くのです。
 もしも重盛が健在で、ずっと棟梁として平家一門を率いていたならば、平家滅亡は避けられたのではないかと言う人もいます。

 重盛の人物評は、生前から好意的なものが多く、鎌倉時代に成立した『平家物語』でも、清盛の悪行を諌める良識派として描かれていますし、勤皇思想が広まった江戸時代には、「日本三忠臣」の一人として高く評価されていました。
 戦前の日本においても、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」の言葉と共に、人気が高かったようです。

 ちなみに重盛は、その邸内に48の灯籠を建てていましたので、灯籠大臣とも呼ばれていました。



素材提供:十五夜

関連話:俊寛

Yasou_0 鹿ヶ谷の陰謀の経緯はドラマのような流れで、それに関わった事で断罪された人物達の中でも、今まで登場して来た藤原成親や西光などについては、それなりに詳しく描かれていました。
 ところで、鹿ヶ谷の陰謀に関わった事で、後世にまで広く知られるようになった人物がいます。それは俊寛という僧です。

 『平家物語』によると、俊寛は、藤原成経(成親の子)、平康頼と共に三人で鬼界ヶ島に流罪になりました。鬼界ヶ島での三人は望郷の念が増すばかりで、成経と康頼は千本の卒塔婆を作って海に流す発心をしますが、俊寛はそれに加わりませんでした。
 やがてその中の一本が、あの厳島神社のある厳島に流れ着き、これに心打たれた平清盛が、中宮・徳子の安産祈願の恩赦を行います。・・・しかし、都に帰るのを許されたのは成経と康頼でした。そうして、俊寛だけが島に取り残される事になったのです。俊寛の絶望と悲嘆は相当なものでした。
 その後の鬼界ヶ島での俊寛は、ついには断食して死ぬのですが、その哀れな様子は『平家物語』でも割と詳しく描かれています。
 そしてこの俊寛の話は、後世でさまざまな芸能に取り上げられて有名になりました。

 自らが何か大きな業績を遺したわけでもなく、罪人として哀し過ぎる末路をたどっただけなのですが、それが後世の人々の共感を得て名前が歴史に残ったという、数奇な運命の人物です。



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