ようこそお越し下さいました。
大河ドラマ「平清盛」を観て心に残った台詞を取り上げるブログです。
なるべく放送当日中(日曜日の午後10時頃まで)には投稿しようと思っております。
また、ドラマの内容の「関連話」を随時で投稿しております。
その他、当ブログにつきましては、右サイドバーのプロフィールでご説明いたしております。
それでは、どうぞごゆっくり。
素材提供:夢幻華亭
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保元の乱というのは、新しく帝になった後白河帝と、息子の重仁親王を帝にして政の実権を握りたい崇徳上皇との戦いでもあり、武家である平氏も源氏も、どちら側に味方すべきかで悩みました。
そして、平氏一門の大半(忠正が率いた軍勢を除く)は、後白河帝側に味方したわけです。
しかし実は、ドラマ「平清盛」では詳しく触れられませんでしたが、清盛の育ての母・宗子(池禅尼)は重仁親王の乳母であり、その夫の忠盛と共に、重仁親王の後見役でもありました。そのため忠盛と宗子は立場上、崇徳上皇側に味方すべき“しがらみ”があったのです。
平氏一門はその意味でも、どちら側に味方すべきか難しい選択を迫られていたわけです。
そして実際に、忠盛と宗子に特に関係の深い2人、忠正(忠盛の弟)と頼盛(宗子の実の子)は、崇徳上皇側につく動きを見せています。最終的には頼盛はつきませんでしたが、その背景には、忠盛と宗子の“しがらみ”の影響もあったものと思われます。
歴史に“もしも”は無いとは言いますが・・・もしも保元の乱の時点で平氏の棟梁が清盛ではなくて、まだ忠盛が生きていて棟梁であったならば、・・・もしくは、家盛(宗子の実の子)が生きていて棟梁になっていたならば、平氏一門はどちら側に味方していたのでしょうか?
忠正や頼盛の動きから考えても、“しがらみ”のある崇徳上皇側(負け組)に入っていた可能性も高かったでしょうね。
そしてそうなると、その後の平氏一門の繁栄は無かった事になります。
しかし保元の乱の時点で、実際に棟梁になっていたのは清盛でしたので、“しがらみ”を振り切って、平氏一門は後白河帝側(勝ち組)に入る事ができたという側面もあるようです。
素材提供:空彩
今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり
これは西行が、ちょうど高野山を下りて都に来た時に、鳥羽院の葬儀と巡りあって、詠んだ歌です。
鳥羽院のご葬儀の今宵になって初めて、私が院と浅からぬご縁で結ばれていたことを思い知らされました、というような意味です。
鳥羽院の生前、将来に葬られる事になる安楽寿院本御塔が出来上がり、それを鳥羽院がお忍びで検分された時に、当時の佐藤義清(西行)は、北面の武士として警護でお供していたようです。
それから17年後、現実に鳥羽院の遺骸がそこに葬られる夜に都に居合わせて、当時の事を思い出し、西行の胸に何とも言えない悲しみが湧いて来たと同時に、不思議なご縁を感じたという訳です。
素材提供:薫風館
「ただ勝つだけではだめなのだ! 父上はあと一息というところまでのぼっておりながら、公卿になれなかった。公卿になれぬでは政にかかわれぬ。政にかかわれねば、世を変えることはできぬのだ」(平清盛)
この戦を、平氏一門の大望を叶える足がかりとしたい清盛としては、冷静な判断が求められる状況です。
「平氏は、必ず勝ってみせまする。この戦にも、・・・あなた様との勝負にも」(平清盛)
「忠盛の遺した志などかなわぬぞ」と釘をさす後白河帝に、清盛が返した台詞です。
「俺は、確かな手ごたえを得たい。武士の世はもうそこまで来ておると。我ら平氏はそのために戦う。帝方にお味方し、命がけでな」(平清盛)
何のための戦いなのかを語った、清盛の台詞です。
「こんな時ゆえこそ、欠かせぬのです。恋する心というものが。ねっ?」(時子)
戦火からの避難先にまで「源氏物語」を持って来た時子の台詞です。
「卑怯未練な真似はせず、存分に戦ってまいれ。されど、ゆめゆめ命を粗末にするでない。決して無駄に捨てるではないぞ。―――殿も。必ず勝って、無事でお帰りくださいませ。・・・そして、この子の顔を見てやってくださりませ」(時子)
時子が、戦に向かう重盛と基盛を激励し、そっとお腹に手をあてて、清盛に子供が出来た事を伝えた台詞です。
「正清。厄介な殿を見捨てられぬは、わし譲りじゃのう」(鎌田通清)
息子・正清に、心の赴くままに義朝の元へ行けと笑顔で伝えた台詞です。
「生きるも死ぬももろとも! それが平氏の絆じゃ。絆を断ってなにを守れるというのじゃ!」(平清盛)
「清盛。わしとお前の間には、絆など、はなっからないわ!」(平頼盛:平忠正よりの言伝て)
平氏を絶やさない事で平氏を守るために、また頼盛を孤立させないために、崇徳上皇側についた忠正ですが、それを知った清盛の台詞と、その清盛へわざと突き離す様な言葉で思いを伝えた忠正の台詞です。
素材提供:Kigen、薫風館
法華七譬(ほっけしちひ:法華経に説かれる7つのたとえ話)の中の一つが、長者窮子(ちょうじゃぐうじ)です。
それは、こんな話です。
幼い時に父のもとから家出して、何十年も流浪しながら貧しい暮らしをしていた息子がある日、裕福な長者になった父の暮らす町にやってきました。
ずっと息子の行方を捜していた父は、一目でそれが息子だと分かりましたが、何も知らない息子は、余りにも自分とかけ離れた父の高貴な姿に驚いて、逃げ出してしまいます。
そこで父は一計を案じて、息子を掃除などをする下働きとして雇うから来いと誘いました。そして長者の父自らも下働きに身を落として一緒に仕事をしながら、息子の卑屈な心根を少しずつ変えて行きます。
やがて心根の成長した息子に、父はすべての財産を管理する仕事を任せますが、それでも息子はまだ、その財産は自分とは関係のないものだと思っています。
さらに時がたち、寿命も残り少なくなった父は、大勢の前で息子の事を宣言します。
「これはわが子です(説是我子)。私の財産はすべて、この子のものなのです」と。
そうやって、やっと息子は父の本心を知りました・・・というあらすじです。
ところで、この話で注目すべき点の一つは、心の離れてしまった息子に父が、長い時間をかけて少しずつ心を通わせて行っている事でしょう。
ドラマの鳥羽院のように、突然に長年の辛い仕打ちを詫びても、息子の崇徳上皇としては、やはり直ぐに心を通わせるというのは難しいのかもしれません。
皮肉にも、長者窮子の話それ自体が、その難しさをも表現しているわけですし・・・。
素材提供:十五夜
「やんごとなきお方に取り入るために入内など、滋子はまっぴらごめんにござります。私は私の好いたお方の妻となりまする。たとえそれが盗人でも乞食でも」(滋子)
清盛の人脈を頼って妹の滋子を「やんごとなきお方」の妻にしようと企てていた時忠に、滋子が言った台詞です。しかし結局の所、滋子は将来・・・。
「されど実の父と子でなくとも。いや、そうでないからこそ、いつかほんとうの親子になれる日がきっと来る。それを私は知っておりまする。法皇様と上皇様にも、その喜びを知っていただきたい」(平清盛)
複雑な血縁関係を乗り越えて2人が和解する事に期待を寄せる、清盛の台詞です。
「法皇様は悔いておいでです。今こそ心より詫び、許しを請い、上皇様とまことの親子になりたいと。新しき帝を定めた夜より、毎日、この写経を続けておいでにござりました。是は我が子なり。法皇様の心よりのお言葉にござります」(平清盛)法華経の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」という譬え話の中にある、「説是我子(とくこれわがこ)」の言葉に思いを込めた鳥羽法皇ですが、簡単には崇徳上皇の心には伝わらないようです。
「どなたが即位されようと、おふたりが仲たがいなさろうと仲直りなさろうと、時はそちらに向かってうねっておる。・・・すなわち天下大乱! 誓いの文を書くも書かぬもそなた次第。―――ただ、そなたにとって、もっとも守るべきものは何か。守りたいものは何か。よ~く考えて決めるがよい」(信西)
信西に現実を突き付けられた清盛です。
「少しばかり遅うござりました、上皇様。私には私の・・・守るべきものがござります」(平清盛)
鳥羽法皇に会いに来た崇徳上皇の前に立ち塞がった清盛の台詞です。もはや大乱を止めるのには、時間切れだという事でしょう。
保元の乱を巡る今後の数回分では、彼岸花(曼珠沙華)のシリーズを、平氏側の象徴イメージとして使用いたします。
素材提供:薫風館、十五夜
乙前(松田聖子さん)や、のちに後白河法皇になる雅仁親王(松田翔太さん)が歌って、「遊びをせんとや・・・」の歌が再び注目されているようです。
当ブログでも、1月10日の関連話でお話しましたが、再びという事で・・・。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ動(ゆる)がるれ」
これは後白河法皇が編さんした『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という、平安時代末期の歌謡集に載っている歌です。
「~るれ」は自発の助動詞で、最後の「動がるれ」で、動いてしまう、という様な意味になります。
それで歌全体では、「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子どもの声を聞いていると、私の身体さえも(遊びたくてうずうずして)動いてしまう」という様な意味になります。
ただし、これは言葉通りに素直に解釈した場合で、遊女が自分の罪深さを嘆く歌だとか、別の解釈もあるようです。
公式サイトによれば、大河ドラマ「平清盛」では素直な解釈で、「子どもが遊ぶときは、時の経つのも忘れて、夢中になる。子どもが遊ぶみたいに、夢中で生きたい」という意味にとらえているそうです。
「夢中で生きる」というのが、ドラマ全体を貫く重要なテーマなのでしょう。
そして「平清盛」の中では、舞子(吹石一恵さん)、祇園女御・乙前(松田聖子さん)、平忠盛(中井貴一さん)、雅仁親王(松田翔太さん)などの登場人物たちに歌い継がれています。・・・次は誰が歌うのかも、楽しみ!ですね。
ちなみに、ドラマでは松田聖子さんの演じる祇園女御と乙前を同一人物として描いていますが、史実としては別人だそうです。
素材提供:十五夜
平安末期の平家の人々が生きた時代を描いた物語は『平家物語』が有名ですが、実は『平家物語』というのは、平清盛が“平家の世”を作って栄華を極めた後から、平家滅亡までの時代が主に描かれているのです。
おそらく『平家物語』で描かれている時代には、大河ドラマ「平清盛」では、最後の4分の1以降くらいでやっと重なるのではないでしょうか。
それでは、『平家物語』以前の、平氏がのし上がって行く時代の話は、何の本に書かれているのかと言えば、それは『保元物語』とか『平治物語』とかなのです。
この『保元物語』と『平治物語』に、『平家物語』と『承久記』を合わせたものを“四部合戦状”と称して、武士の勃興期の様子を描いたひと続きの物語とする見方が中世からあったようです。
今回の「誕生、後白河帝」のエピソードは、その『保元物語』の始まりに当たります。
いよいよ本格的に武士の世に変わって行く時代に、ドラマが入ったという事になりますね。
なお、長大な『平家物語』に比べて、『保元物語』や『平治物語』は、それほど長くはない物語ですので、現代語に訳されたものがネット上でも読めるようです。
素材提供:空彩
「感無量にござります。たくましき野良犬の吠える声に、今や朝廷御自ら耳を傾けるようになったのでござりますからなあ」(藤原家成)
ドラマの第2回で、王家の犬にはなりたくないと言う清盛に、「表で野良犬がいくら吠えても聞こえませぬ。せめて飼い犬となって、お耳のそばで吠えませぬとな」と教えた家成でした。
「おそれながら、上皇様がお変わりになったのではござりませぬ。われら武士の役目が、少しずつ変わってまいったと心得まする」(平清盛)
平氏に頼ろうとする崇徳上皇を揶揄する雅仁に、武士の棟梁となった清盛が語った台詞です。
「法皇様。上皇様。おふたりに、仲良うしていただく」(平清盛)
平氏はどちら側につくべきかを決める話し合いで、清盛が出した意外な・・・しかし、それが可能ならば一番良い・・・結論でした。
「私もまた、父・忠盛の実の子ではござりませんでした。されど今は一門に受け入れられ、拙いながらも平氏の棟梁となりましてござります。それはみながそれぞれの抱えるわだかまりに向き合い、嵐を乗り越えてきたからこそ! すれちごうたお心同士を引き合わせるは、今しかござりませぬ!」(平清盛)
崇徳上皇と和解させようとして、鳥羽院に語った清盛の台詞です。
「誰も私を見てくれる者はおらぬ。声のかれるほど歌うておっても。・・・生まれて来ずとも、なんの障りもなかった者なのじゃ」(雅仁)
「声をからして歌われるは、あなた様の内に、なにか正体の知れぬ力がみなぎっているからにござりましょう。ただ、あなた様はその力のやり場を見つけられぬだけ。いつかあなた様の内からなにかがあふれてくる。・・・それはきっと、世を大いに動かすものにござりましょう」(乙前)
生きる意味を模索し続けていた雅仁が、その苦悩から解き放たれたように感じた乙前の台詞です。
「やはり人は、生まれいずることがすでに博打じゃ。だが・・・生まれてこなければ勝つも負けるもない。それではおもしろうない!」(雅仁)
再び生きる気力を取り戻した雅仁が、近衛帝の弔問に内裏を訪れた清盛に語った台詞です。
「あのとき、あの歌が聞こえていなければ俺は、生きていられなかったやも知れぬ・・・」(平清盛)
「ほう・・・そなたもか」(雅仁)
「遊びをせんとや生まれけむ・・・」は、夢中に生きる活力を呼び起こす歌として描かれているようです。
素材提供:十五夜
朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける
千載和歌集に載っている、崇徳院の歌です。
「思ひ寝」は、恋しく思いながら寝る事です。朝に夕に、今か今かと花開くのを待ち焦がれるうちに寝入ってしまい、ついには夢の中で桜が咲き始めた、というような幻想的な内容です。
この歌が言葉通りに桜を詠んだものなのか、ドラマで藤原忠通や美福門院・得子が皮肉っていたような、自身の境遇を詠んだものなのか、それとも、誰か恋している女性があって、その思いを詠み込んだものなのか、解釈は様々にあるのでしょう。
この頃の崇徳院の寵愛は、忠通の娘で中宮の聖子から、兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね。重仁親王を産んだ)に移っていましたので、そういう意味でも忠通は崇徳院の歌に皮肉の一つでも言いたかった (^^; のかもしれません。
ちなみに、のちの保元の乱では、忠通と崇徳院とは敵同士になりますが、理由の一つがそれだったとも言われています。
そう考えると、単に美しいだけの歌ではなく、その裏に何やら複雑なモノが秘められているようにも思えてきますね。
素材提供:空彩
「俺が棟梁となった上は、亡き父上の固き志を継ぐ。すなわち、武士の世を目指す! これは棟梁である俺の、そして平氏一門の志と心得よ!」(平清盛)
武士の世の実現に目標を定めた平氏一門です。
「常盤がおったゆえ、俺はどんなこともできた。・・・常盤は、俺の心の支えなのだ」(源義朝)
「鬼武者。殿は源氏を背負うて立つお方。子を増やすのは、大事なつとめじゃ。・・・常盤というお方は、中宮呈子様にお仕えしておいでだそうな。殿がより、帝に近う寄れるやもしれぬのなら、喜ばしいことではないか」(由良)
心の安定を得て、着実に地歩を固めつつある義朝の台詞です。またそれを、自分に言い聞かせるように、息子の鬼武者(頼朝)に諭す由良です。
「姉上が琵琶をやめたは、義兄上が言うたからですよ。耳に残る明子様の音色をかき消されとうないと。・・・姉上はそれを、今も守っておいでなのです」(平時忠)
時子が宴で琵琶を弾くのを断った本当の理由がこれでした。時子は十何年も、清盛の言葉を守り続けていたのでした。
「私は妻や子、親、兄弟、家人たち。すなわち我が一門の者たちを、何より大事に思うておりまする!」(平清盛)
平清盛お披露目の大事な歌会での、清盛の台詞です。
「母上を傷つけるようなことを申さば、父上といえども許しませぬ!」(平重盛)
育ての母である時子を守ろうとする、重盛と基盛です。
「俺にも聴かせよ。そなたの琵琶じゃ。・・・心配するな。そなたの音色と明子の音色はまるでちがう・・・いずれも忘れはせぬ」(平清盛)
平さんちの琵琶問題・・・解決!
「お前は強うなりすぎた。おのが父の誇りを踏みにじって、何の痛みも覚えぬほどにな! さような者に、源氏を背負わせるわけにはいかぬ!」(源為義)
源氏の跡継ぎに与えられる宝刀を、為義が別の弟に与えた事に、義朝が怒った時の為義の台詞です。
素材提供:十五夜、薫風館